雑記と私見

調整中…

自己憐憫が止まらなくなってきたので、吐き出したい。

平凡な人間は、自分が想像するような飛躍的な技術能力の向上があるわけがない。自明であるのに、先延ばしにしてしまう。MFA(Master of Fine Arts)の取得のために、英語を伸ばしてIELTSや、TOEFLの試験対策をしよう(が、それ以降の明確な目標はない)。将棋AIに興味があるから、プログラミングをやろう(が、書籍を買ってそのまま)。若手の研究会に積極に参加して研究賞を獲ろう(が、突き詰める気力もない)。全敗。
 
逃げていた就活という他者評価レースに巻き込まれる中、何も目標に進んでいないこと、始まってすらいないことに気後れしそうになって、今日爆発した。
 
「俺はまだ本気をだしていないだけ」 ――大学院に入って1年。好きな映画を観て、バイトをして、何気なく論文や専門書を読んで、先輩から引き継いだ研究をなあなあとやっている現状。
 
前回の記事を書いてから、早1年半が経とうとしている。久し振りにブログを覗くと。反応が少なからずあったことには驚いた。デス・ストランディングの記事は、丁度、大学時代に在籍していた研究室の先生に相談もなく、こっそり他大学院を受験し、現在所属する研究室へと進学することを、先生に報告した時期に陰鬱になりながら、殴り書いたものだ。
 
所属していた研究室の大学院へ進学するための入試は、当日受けずに逃げた。試験後も、バツが悪いので研究室へ足を運ばずにいた。その上、院試を受けるからそれに向けて集中したいという名目で、卒業研究(自分の学部は研究論文の提出が必修)は3割も手をつけていなかった。所属先が変わらないのであれば、そのまま修論に向けて準備する計画(言い訳)で動いていたからだ。
 
…つまり、卒業研究を先延ばしにする方法を考え、「あなたの研究室へ修士修了の為に進学します!」と大ボラを吹き、論文提出が1月の中、12月にようやく呼び出され、違う大学院へ進学すること、卒業研究が全然進んでいない状況を報告した。
 
この物語は、先生に飽きられて、卒論は一度も推敲せず(というか、見てもらえてない)に提出した顛末で終わる。大学1年の基礎演習(入学後の学生生活支援として設けられたオリエンテーションとHRを掛け合わたゼミ形式の講義)からお世話になり、自分の興味と先生の研究分野が重なり合っていたこともあり、変わらず先生の研究室所属となった。良縁だと思っていた。信頼関係は当然崩れ、報告後、口は全く聞いてもらえず。
 
先延ばし(procrastination)の悩みは、Wikipediaで「先延ばし」ページを見ると詳細な認知行動療法が記述されて驚く。おそらくこれは、大勢の人が持つ先延ばしの悩みが生んでいるのかもしれない。「みんな持ってる悩みだから…」という事実に寄り縋って自己正当化して、自己憐憫に浸る自分。この数年は、対処法やらライフハックやらいろいろサイト情報をpocketのアプリに入れた。入れて満足した。
 
つくづく自分のバカさにヘドが出る。プライドだけは高い。早慶上智クラスの某私大に入学して、そのまま旧帝大クラスの某国立大学院へ進学してなおさら、薄っぺらいブライドが肥大するだけだった。
 
俺はやればできる。俺はやればできる。どれだけ言い聞かせて平常心を保とうとしたのだろう。
 
自己憐憫が止まらなくなってから、昨年の11月1日にとある映画と衝撃な出会いをした。東京国際映画祭で出品された「Of Love & Law」のドキュメンタリー映画だ。『同性婚 私たち弁護士夫夫(ふうふ)です』(祥伝社新書)の著者、南和行氏とそのパートナーを中心点に、ろくでなし子裁判、「君が代」不起立裁判、無国籍児の問題を通して、「単一民族国家論」神話で成り立つ日本の人権思想の無関心さが露呈されていく。
 
非日常決めつけ無関心を装うとする中で育まれる権力によって押しつぶされる存在と、その抵抗する狭間に描かれる家族・親子間の愛の姿は、狂おしい程純粋な姿として鑑賞者に訴えていたように思えた。「それでも法は何かを変えてくれると期待する」ーー偏重的で明らかに公平性が欠かれた審判(社会)の中でも、二人はより良い未来[*1]を信じて前を歩む。
 
「愛って、『プラネテス』のタナベじゃああるまいし…」と斜に構えていても、彼らの想い、監督の描き出す愛の姿には勝てなかった。観賞後、心臓の鼓動が鳴り止まず、手汗はジトリと冷たかった。逃げ出したかった。だけど素晴らしい。Q&Aセッション時の戸田なつみ監督の真っ直ぐな姿勢と態度に、心が奪われた。
 
何もやらずに動かずに本当何やっているのか、本当に口惜しい。MFA?将棋AI?研究賞?映画も撮ってみたかった?夢語ってんじゃねーよ。そして、この薄っぺらい自己愛からもたらされる自己嫌悪が、就活中に今日爆発した。理由はわからないが、めまいがした。
 
気分が落ち着いてから、ふとこんなことを思いついた。
 
自己愛に満ちたクズを観察して記録することにした。クズは何を考え、目標に向かうのか。一つログを取ってみよう。
 
セルフブランディングm9(^Д^)と言って、常識人でいようとしていた自分。一つの思いつきでブログを続けて変わることはできるのだろうか。正直、とても屈辱的な感覚がする。だが、身バレすることはない、誰も閲覧することはないと信じて、ブログを書こうと思う。
 
[*1]
映画は、南和行氏とそのパートナーが養子縁組制度を利用し、(異性愛的な)家族を作る「未来」を示してエンドロールを迎える。ここにはどうしても、異性愛主義の標準な枠組みに対する賞賛、つまりEdelmanが語る「再生産的未来主義」への賞賛に繋がり、異性愛主義の変わらない日常へと収束するだけではないのかと考えてしまう。他の人はどう感じたのだろうか。
 
悶々とする中「FAKE」を配給した東風の配給が決定しているようだ。2018年の大きな話題の一本になることを期待したい。

DEATH STRANDING -「予測と制御された世界」を超える「新しい世界」への挑戦-

生物に繋がるチューブと、予測と制御された世界

itoh-archive.hatenablog.com

「すべてが数えられ、予測され、制御しうるとき、その世界とは一体なにか」
という仮定を突き詰めていった結果、MGS2はこういう結論に達する。
それは仮想現実だ、と。
(中略)
この世界が仮想現実であっても、それが現実であること、どこにも逃げ場のない唯一無二の現実であること、そして、それでもなお仮想現実でしかないこと。
この絶望が、MGS2をどこまでも染めあげている。

 

伊藤計劃が書き上げるMGS2論は、自身が予測と統御不可能なガン(自然)に侵されつつも、医療行為という科学技術に生かされ、生存する「欲望」のために自然を予測、収束と統御される自身の身体への眼差しから鋭く論じられる。

 

 この「制御された現実」を思い出したきっかけは、2016年のE3で突如発表された「DEATH STRANDING」(以下、DS)のティザームービーだった。そこには、蟹、乳児と朽ち果てたクジラに繋がれたケーブルが、へその緒であるかのように繋がれるカットシーンが登場する。それはまるでケーブルで繋がれ「統御」されているかのように。科学技術で生かされ、ベットの上で横たわる患者が、ぶら下げられた点滴チューブをに繋がれ虚空を覗く…、そんなイメージを覚えたからだ。

 

彼岸と此岸の世界観で描かれる、MGS2の「その後」

 ノーマン・リーダスが扮する登場人物(主人公?)の手錠と十字架に縫合している腹部から察するに、男は制御された現実からケーブルを外され、ヘソ当たりに十字架を背負い、アウトローな存在と化してしまった(または本人の意志でケーブルを外し、アウトローな存在になった?)と考えられる。DSは「制御された現実」=あらゆる生物がケーブルに繋がる世界(此岸)が在り、何かしらの機能不全(死?)に至った生物が海岸(彼岸)に座礁する世界が在る。男は機能不全を起こさず彼岸に座礁し立ち上がる。

 

 その後、E3時のインタビューでは、DSは「縄」のつながりを意識したゲームであると、コンセプト発表が為された。

www.jp.playstation.com

──ティザー映像には、へその緒のようなものでつながれた幼児が描かれていました。あれは「LIVE STRANDING」を表わしているのでしょうか。

 

考えてみると、ゲームはオンラインであれマルチプレイであれ、ユーザーが使っているのは棒です。要するに、殴ることでコミュニケーションが生まれています。『DEATH STRANDING(デス・ストランディング)は、その次に行こうとするゲームです。当然棒も出てきますが、ゲームをプレイしながら縄的な思考でつながる話です。ストーリー、世界観はもちろん、ユーザー同士、あるいはゲーム実況者などすべてが「つながる」。その実験にいま取り組んでいます。

 

縄的な思考でつながるストーリー、世界観は、残念ながらティザームービーでは深く掘り下げられていない。ここでは「暴力ー被暴力の殴る関係ではない、縄のつながりを意識する協調関係」について考える。なぜ、「暴力ー被暴力」ではない「縄的な思考が意識される協調関係」が重要なのか。

 

それは、制御された現実の対処方法を、縄のような協調関係(縄的な思考)に、MGS2と異なった道標をDSで小島監督が示そうとしているからではないだろうか。

 

 ここで、落合陽一氏の連載(「落合陽一『デジタルネイチャーと幸福な全体主義』 第1回 人間性の脱構築と7つの仮想未来」)を参照したい。2017年現在、制御された現実はより実現味が増していることが実感できるはずだ。

note.mu

今までのユビキタスコンピューティングでは、人間はコンピュータを媒介して世界に働きかけていました。しかし、全ての情報が計算機によって記述されるようになると、人間とコンピュータの違いは、ただの処理系の物理実装の差でしかなくなり、データの上では両者は区別がつかなくなります。人間を含めた、ありとあらゆる事象が「計算機の中にある自然」として存在するような世界、これが「デジタルネイチャー」です。それは自然の一部として存在して、内部に自然を再現するように進歩してきた計算機が、自己と自然の両方を再帰的に飲み込みつつあるということです。


 このデジタルネイチャーでは、自然そのものがコンピュータによって記述されることが前提です。そこでは、人間がコンピュータを扱うのではなく、コンピュータが人間を操ることがあるかもしれません。人間だけでなく、データと物質の区別もなくなるかもしれない。そしてその世界は極めて無意識的に進行していく。

 

 

 氏の連載は、MGS2のAIが理想として掲げる「AIによるコンテクストの生成」の行き着く未来の社会を丁寧に解説する良書であり、実はそれほど気分が重くなるものではないと感じさせるから不思議だ。話は反れるが、『ハーモニー』がナノマシンのテクノロジーへ寄り添い、意識を消失した結末は、氏がよく用いる「人間性を捧げよ」との意味合いが近く、「幸福な全体主義」になった物語の結末を描いた世界にも納得がいく。

 

 しかし、AI等の科学技術によって予測と制御された現実(=デジタルネイチャー)が、例え統御不可能な自然に触れられない絶望に染め上げていたとしても、例え制御された現実から得られる新しい価値観に触れたとしても、これらの良し悪しの関係なく、制御された現実では「制御する科学技術ー統御される人間」=「暴力ー被暴力」の関係は絶対だ。そして、DSの此岸の世界はこれが揺るがない現実なのだ。此岸から逃れるためには、彼岸へ座礁する…、単純に「死ぬ」しかないのだ。この問題に意識的に取り組む方法として「縄的な思考」が持ち出される。絶対的な関係から離れて、彼岸から縄的な思考による異なる「現実」へ向かおうとする。これこそがDSで描かれる世界設定なのではないだろうか。

 

 MGS2は、「言葉の力、俺たちが信じたものを後世に伝えること」が制御された現実に唯一立ち向かう方法として語られた。しかし、制御された現実の中では、これらはデータにすぎないことは自明で、2001年の発売日から15年あまり経った現在、驚くほどに「言葉の力、俺たちが信じたものを後世に伝えること」が陳腐に感じる。個人の思想・言論はより信じるものしか信じない強固性と排他性が増し、「俺たち」は「反<俺たち>」を言葉の力で叩く(主に日本の話である)。

 その後のMGSシリーズの詳しい変遷は割愛するが、「制御する科学技術ー統御される人間」=「暴力ー被暴力」が偏在する制御された現実に対する、何かしらの回答は、棚に上がったままだと個人的に感じている。MGS4ではまるで「呪われた命題」として描かれ、雷電は呪われた命題に蝕まれたサイボーグと化した。MGSPWは、核抑止力のバランスで保たれる世界をAIで制御してみたら…というIFストーリーが展開されるが、呪われた命題については詳しく触れることはない。

 

 DSはMGS2のこの呪われた命題を再び語り直すことになると予想している。科学技術が発達したチューブによって支配される此岸から、機能不全となったものどもの彼岸へ。「制御する科学技術ー統御される人間」=「暴力ー被暴力」が偏在する制御された現実から離れた彼岸を描き、座礁後、縄的な思考を用いてどう対処するか。ユーザーに何を求めるのか。MGS2で提示されたMEME(文化的遺伝子)を超えた、より力強い道標を期待せずにはいられない。

 

縄的な思考については、情報が公開される毎に、逐次考察していきたい。