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雑記と私見

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DEATH STRANDING -「予測と制御された世界」を超える「新しい世界」への挑戦-

生物に繋がるチューブと、予測と制御された世界

itoh-archive.hatenablog.com

「すべてが数えられ、予測され、制御しうるとき、その世界とは一体なにか」
という仮定を突き詰めていった結果、MGS2はこういう結論に達する。
それは仮想現実だ、と。
(中略)
この世界が仮想現実であっても、それが現実であること、どこにも逃げ場のない唯一無二の現実であること、そして、それでもなお仮想現実でしかないこと。
この絶望が、MGS2をどこまでも染めあげている。

 

伊藤計劃が書き上げるMGS2論は、自身が予測と統御不可能なガン(自然)に侵されつつも、医療行為という科学技術に生かされ、生存する「欲望」のために自然を予測、収束と統御される自身の身体への眼差しから鋭く論じられる。

 

 この「制御された現実」を思い出したきっかけは、2016年のE3で突如発表された「DEATH STRANDING」(以下、DS)のティザームービーだった。そこには、蟹、乳児と朽ち果てたクジラに繋がれたケーブルが、へその緒であるかのように繋がれるカットシーンが登場する。それはまるでケーブルで繋がれ「統御」されているかのように。科学技術で生かされ、ベットの上で横たわる患者が、ぶら下げられた点滴チューブをに繋がれ虚空を覗く…、そんなイメージを覚えたからだ。

 

彼岸と此岸の世界観で描かれる、MGS2の「その後」

 ノーマン・リーダスが扮する登場人物(主人公?)の手錠と十字架に縫合している腹部から察するに、男は制御された現実からケーブルを外され、ヘソ当たりに十字架を背負い、アウトローな存在と化してしまった(または本人の意志でケーブルを外し、アウトローな存在になった?)と考えられる。DSは「制御された現実」=あらゆる生物がケーブルに繋がる世界(此岸)が在り、何かしらの機能不全(死?)に至った生物が海岸(彼岸)に座礁する世界が在る。男は機能不全を起こさず彼岸に座礁し立ち上がる。

 

 その後、E3時のインタビューでは、DSは「縄」のつながりを意識したゲームであると、コンセプト発表が為された。

www.jp.playstation.com

──ティザー映像には、へその緒のようなものでつながれた幼児が描かれていました。あれは「LIVE STRANDING」を表わしているのでしょうか。

 

考えてみると、ゲームはオンラインであれマルチプレイであれ、ユーザーが使っているのは棒です。要するに、殴ることでコミュニケーションが生まれています。『DEATH STRANDING(デス・ストランディング)は、その次に行こうとするゲームです。当然棒も出てきますが、ゲームをプレイしながら縄的な思考でつながる話です。ストーリー、世界観はもちろん、ユーザー同士、あるいはゲーム実況者などすべてが「つながる」。その実験にいま取り組んでいます。

 

縄的な思考でつながるストーリー、世界観は、残念ながらティザームービーでは深く掘り下げられていない。ここでは「暴力ー被暴力の殴る関係ではない、縄のつながりを意識する協調関係」について考える。なぜ、「暴力ー被暴力」ではない「縄的な思考が意識される協調関係」が重要なのか。

 

それは、制御された現実の対処方法を、縄のような協調関係(縄的な思考)に、MGS2と異なった道標をDSで小島監督が示そうとしているからではないだろうか。

 

 ここで、落合陽一氏の連載(「落合陽一『デジタルネイチャーと幸福な全体主義』 第1回 人間性の脱構築と7つの仮想未来」)を参照したい。2017年現在、制御された現実はより実現味が増していることが実感できるはずだ。

note.mu

今までのユビキタスコンピューティングでは、人間はコンピュータを媒介して世界に働きかけていました。しかし、全ての情報が計算機によって記述されるようになると、人間とコンピュータの違いは、ただの処理系の物理実装の差でしかなくなり、データの上では両者は区別がつかなくなります。人間を含めた、ありとあらゆる事象が「計算機の中にある自然」として存在するような世界、これが「デジタルネイチャー」です。それは自然の一部として存在して、内部に自然を再現するように進歩してきた計算機が、自己と自然の両方を再帰的に飲み込みつつあるということです。


 このデジタルネイチャーでは、自然そのものがコンピュータによって記述されることが前提です。そこでは、人間がコンピュータを扱うのではなく、コンピュータが人間を操ることがあるかもしれません。人間だけでなく、データと物質の区別もなくなるかもしれない。そしてその世界は極めて無意識的に進行していく。

 

 

 氏の連載は、MGS2のAIが理想として掲げる「AIによるコンテクストの生成」の行き着く未来の社会を丁寧に解説する良書であり、実はそれほど気分が重くなるものではないと感じさせるから不思議だ。話は反れるが、『ハーモニー』がナノマシンのテクノロジーへ寄り添い、意識を消失した結末は、氏がよく用いる「人間性を捧げよ」との意味合いが近く、「幸福な全体主義」になった物語の結末を描いた世界にも納得がいく。

 

 しかし、AI等の科学技術によって予測と制御された現実(=デジタルネイチャー)が、例え統御不可能な自然に触れられない絶望に染め上げていたとしても、例え制御された現実から得られる新しい価値観に触れたとしても、これらの良し悪しの関係なく、制御された現実では「制御する科学技術ー統御される人間」=「暴力ー被暴力」の関係は絶対だ。そして、DSの此岸の世界はこれが揺るがない現実なのだ。此岸から逃れるためには、彼岸へ座礁する…、単純に「死ぬ」しかないのだ。この問題に意識的に取り組む方法として「縄的な思考」が持ち出される。絶対的な関係から離れて、彼岸から縄的な思考による異なる「現実」へ向かおうとする。これこそがDSで描かれる世界設定なのではないだろうか。

 

 MGS2は、「言葉の力、俺たちが信じたものを後世に伝えること」が制御された現実に唯一立ち向かう方法として語られた。しかし、制御された現実の中では、これらはデータにすぎないことは自明で、2001年の発売日から15年あまり経った現在、驚くほどに「言葉の力、俺たちが信じたものを後世に伝えること」が陳腐に感じる。個人の思想・言論はより信じるものしか信じない強固性と排他性が増し、「俺たち」は「反<俺たち>」を言葉の力で叩く(主に日本の話である)。

 その後のMGSシリーズの詳しい変遷は割愛するが、「制御する科学技術ー統御される人間」=「暴力ー被暴力」が偏在する制御された現実に対する、何かしらの回答は、棚に上がったままだと個人的に感じている。MGS4ではまるで「呪われた命題」として描かれ、雷電は呪われた命題に蝕まれたサイボーグと化した。MGSPWは、核抑止力のバランスで保たれる世界をAIで制御してみたら…というIFストーリーが展開されるが、呪われた命題については詳しく触れることはない。

 

 DSはMGS2のこの呪われた命題を再び語り直すことになると予想している。科学技術が発達したチューブによって支配される此岸から、機能不全となったものどもの彼岸へ。「制御する科学技術ー統御される人間」=「暴力ー被暴力」が偏在する制御された現実から離れた彼岸を描き、座礁後、縄的な思考を用いてどう対処するか。ユーザーに何を求めるのか。MGS2で提示されたMEME(文化的遺伝子)を超えた、より力強い道標を期待せずにはいられない。

 

縄的な思考については、情報が公開される毎に、逐次考察していきたい。